幸福追求権

フィクションだったらよかったのに

ブログをはじめました

23歳の夏。ブログを始めることにした。

目的は3つある。

1.自分の考えを言語化するため。

2.人生の備忘録として。

3.誰かに伝えるため。

 

1.自分の考えを言語化するため。

私は面接が苦手だ。

自分はこういう人です、というのがうまく言えない。言いたくない。

私を審査するために必要なことだと分かってはいるが、過去の失敗や挫折は何ですかとか訊かれたくない。

基本的に反抗的な性格をしているので、分かったような顔をされるとお前に私の何がわかる、と思ってしまう。

しかし最近、それではいけないと思い始めた。

23歳にして。遅い。

人間社会で生きていくには、自分がどういう人間で、どんな価値観を持っていて、何ができて何ができないのか、それを出来るだけ的確に他人に伝える必要がある。

例えばアスリートのように、他人と明確に差別化できるスキルを持たない私にとって、どうやら自分自身を言葉で説明するのは避けて通れないことであるようだ。

簡潔に、明確に言語化して、必要な時に取り出せるようにしておかないと、今後生きていく上で自分が困る。

だからブログに綴って、私の考えを言語化して把握しようと思う。

 

2.人生の備忘録として。

 私は記憶力が致命的に悪い。

営業職のくせにおじさんの顔が覚えられないので、会ったことがある人に名刺交換を求めてしまう。何度か訪問したことがある場所でも、地図がなくてはたどり着けない。社内で電話を取り継ぐ際に、つい3秒前に聞いたのに誰宛の電話かを忘れてしまう。何につけてもメモが欠かせないので、会社のデスクは付箋だらけだ。

昨日納豆を買ったことを忘れて今日も納豆を買ってしまう。頭を洗ったことを忘れて2度頭を洗ってしまう。よく会う友人に同じ話を何度もしてしまう。人の話もあまり覚えていないので、何度か聞いた話も初めて聞いたような反応をしてしまう。

短期記憶も長期記憶も両方だめ。

視覚情報も聴覚情報も覚えておくのが苦手だ。 

唯一、嗅いだことのある匂いで忘れていた記憶を呼び起こすことはできる、と思っていたが、嗅覚の記憶は得意な人が多いらしい(?)という記事を何かで読んだ。これもいつどこで読んだのかさっぱり忘れたが。

そんな感じで毎日新鮮に過ごしているが、覚えていられない自分がもどかしいし、忘れたくない思い出を取り出せるようにしておきたいと思うようになった。

思い出は私が生きた証でもある。

それを書き留めて、忘れた頃に取り出してみるのは楽しいかもしれない。

未来の自分がワクワクするための、タイムカプセルだ。

 

3.誰かに伝えるため。

もしかしたら私の考え方、経験が、誰かの共感を得て、おこがましくもささやかな救いになる可能性があるかもしれない。

そう思ったのはつい昨晩のことである。

大学で出会って、今年で6年目になる友人と夜のファミレスで語り合った。

 その友人は、母親との関係に問題を抱えている。

父、母、兄弟が上と下に1人ずつ。田舎で3人兄弟の真ん中に生まれ、東京の大学に進学した。

目に見えてわかる暴力などはなかったものの、母親から日常的に心無い言葉を投げかけられ、母が他の兄弟に向ける愛情と自分に向ける愛情に明確な差があった。

具体的にはブスとよく言われていたと、彼女は私も含め周囲の友人に、明るく、なんてことないように話すことがあった。今でもしきりに自分自身をブスだと言って貶める。明るい調子で、笑顔のままで。呪いのようだと思う。

それなのに彼女は大型連休には必ず実家に帰り、そしてまた傷つけられて東京に戻ってくる。

私にはそれが解せなかった。

彼女の家族関係は私のそれによく似ている。

田舎、3人兄弟の真ん中、私にだけ「産まなければよかった」と言う母親、大学進学とともに上京したこと。

ただ、私は上京してからはあまり親に会わないようにしている。

正月も毎年バイトのシフトを入れた。帰省したのは法事と母が入院した時くらいなものだ。

また傷つけられるのが怖いし、これ以上母を嫌いになりたくもない。

母は気持ちに余裕のあるときは、絵に描いたような母親だったと思う。私の描いた絵を褒めてくれた。幼稚園でいじめられれば家から遠い幼稚園へ転園させ、送迎してくれた。誕生日プレゼントが欲しいと駄々をこねればぬいぐるみを買ってくれた。私の好きなお菓子を買っておいてくれた。私が庭のオジギソウが好きだと言えば家の中に鉢植えをおいてくれた。私が縁日で取ってきた金魚を育て、死んだら庭に埋めてくれた。料理も教えてくれた。受験の時期は気遣ってくれた。

愛してくれた思い出はいくらでもある。感謝はしている。

ただ、実家から離れた田舎で3人の子供を育てるのは大変だったんだと思う。特に私のような変なこどもと、自閉症の弟がいては尚更のことだ。

私は兄弟の中で一番反抗的で、理想的な母親を演じる母に対して理想的な子供でいられなかった。発育が遅かったのか小学校低学年になっても呼びかけに応じなかった。何かと反抗的で、ゲームや漫画を欲しがるし、家の手伝いは嫌がる。母が弟ばかり構うのが気に入らなくて弟を攻撃した。縁日の金魚はもらってくるなと言われたのにもらってきて育てたいと主張した。おねしょはなんと中学生になっても治らなかった。学校でも馴染めず、いじめられて帰ってくる。

こうして書き出してみれば「産まなければよかった」「お前が一番可愛くない、憎い」「お金さえあれば遠く離れた全寮制の学校に放り込めるのに」と言いたくなる気持ちもわかる。母も十分傷ついて、苦しんだのだろう。

大人になって、親と距離を置いてみてそれが分かった。

母への憎しみは消えないままに、同時に心から感謝できるようになった。

親への感謝と憎しみが同時に成立し得る感情であることを自覚した時、気持ちがとても楽になったことを覚えている。

感謝の気持ちから、たまに手紙を書いて送るようになった。母にLINEを教え、私からは連絡しないが母からの連絡には返信をするようになった。一方で、自分を守るために対面で会うことや、会話せざるを得ない電話はしない。

それが私なりの折り合いのつけ方だ。

私はこの話を他人に一切したことがなかった。

察しの良い別の友人に、あなたは家族の話をしないよね、と言われた時もうん、とだけ答えた。

他人に理解されると思わないし、理解されたくもない。誰にも関係のない、私の個人的な葛藤に興味すら示されたくない。

ただ、昨晩、似た境遇にありながら自ら家族に会いに行き、傷ついて帰ってくる彼女に我慢できなくなった。

私は自分と母親の話をした。

彼女と似た状況で育ったこと、母親への感謝と憎しみが心に同居していること。たまに手紙を書いて送り、LINEが来たら返すが、対面での接触は避けていること。

 なぜ友人が家族に会いに行くのかは分からないが、自分を苦しめるものからは例えそれが家族であっても私は距離を置くことにしたということ。

 それからは2人で、たまに抑えきれない涙を拭いつつ自分の葛藤を話した。夜のファミレスでやることではなかったと思うが、空いてたし隅っこのカウンター席だったので許してほしい。

終電で帰るために店を出た後、彼女は私に救われた、ありがとうと言ってくれた。

似た経験を持つ友人が少しでも楽になってくれたなら、勇気を出して話してみてよかったと思う。私も少しすっきりした。誰かにずっと言いたかったのかもしれない。

私は自分の話をするのが嫌いだ。

正しく理解されるとも、理解してほしいとも思っていない。私のことを理解したような顔で擦り寄ってくる人間が何よりも嫌いだ。

でも昨晩のことを経て、自分の経験や考え方を言語化してみようと思った。

そしてそれをインターネットに放流して、会ったこともない誰かの救いになれたら最高だし、なれなくても私がすっきりする。

何かしら得るものがあったと、この世界のどこかで誰か1人でも思ってくれたら幸せだと思う。